第7回授業用資料
2015年11月25日 07:22
法の下の平等
日本国憲法第14条
すべて国民は、法の下に平等であつて、人種、信条、性別、社会的身分又は門地により、政治的、経済的又は社会的関係において、差別されない。
2 華族その他の貴族の制度は、これを認めない。
3 栄誉、勲章その他の栄典の授与は、いかなる特権も伴はない。栄典の授与は、現にこれを有し、又は将来これを受ける者の一代に限り、その効力を有する。
法の下の平等の意味
①個人の尊厳の思想と同じく、人権規定の総則的な意味をもつ原則である。
②近代憲法は、自由の確立と同時に、法の下の平等を宣言している。
③自由と平等の二原理は、相互に関連し依存し合い、封建制度や絶対王政における身分的差別を撤廃し、人間の自由を確立してきた。
形式的平等と実質的平等
19世紀:形式的平等(機会の平等)
全ての個人を法的に平等に取り扱い、自由な活動を保障した。だが、資本主義の発展に伴って、富める者はますます富み、貧しい者はますます貧困にあえぐ。貧富の格差をもたらした。
20世紀:実質的平等(結果の平等)
経済的自由に制約を加えると同時に、社会的経済的弱者を手厚く保護し、全ての国民が自由と平等を維持できるよう生存権を保障した。
明治憲法と現行憲法の違い
明治憲法第19条の場合
「日本臣民ハ法律命令ノ定ムル所ノ資格ニ応シ均ク文武官二任セラレ及其ノ公務ニ就クコトヲ得ル」(国民の公務就任資格の平等保障)
現行憲法第14条の場合
第1項:法の下の平等の原則を宣言する。
第2項:華族・貴族制度を廃止する。
第3項:栄典に伴う特権を禁止する。
現行憲法における平等の徹底
①普通選挙の一般原則(第15条)
②請願を理由とする差別禁止(第16条)
③選挙人の資格の平等(第44条)
④両性の本質的平等(第24条)
⑤教育の機会均等(第26条)など
これらの条文を通じて、現行憲法は、平等原則の徹底を図っている。ただ法の下の平等を保障するだけでは不十分だった。
法の下の平等の意味(詳解)
①憲法第14条の「法の下の平等」は、第13条の「個人の尊重」を受けての「平等」を意味する。つまり、人は「個人として尊重される」からこそ、平等でなくてはならないという考え方に立っている。
②このとき「法」は、法律、命令、規則、条例などの成文法のみならず、判例法、慣習法といった不文法も含む。
③「法の下の平等」は、①法を具体的に適用する行政権及び司法権だけを拘束し、法が無差別に適用されるべきことを要求するのか、②それとも立法権をも拘束し、法の内容も平等の原則に立って制定すべきことを要求するのか。通説では、法を適用する行政権及び司法権のみならず、法を制定する立法権をも拘束する。なぜなら、不平等な法を平等に適用することは不可能だから。
旧刑法には、「妻が姦通したときは、2年以下の懲役に処せられる」とする妻の姦通を禁止・処罰する刑罰規定が存在した。かかる不平等な内容をもつ法を、いかに平等に適用しても、依然として姦通に関する妻と夫の不平等は残ることになる。それ故に、「法の下の平等」とは、法を不平等に適用することを禁じるのみならず、不平等な取り扱いを内容とする法の制定をも禁じた。
ところで、憲法第14条第1項後段では、国民は、「①人種、②信条、①性別、③社会的身分または①門地により、政治的、経済的又は社会的関係において、差別されない」と規定される。ここで言う、①「人種、性別、門地」=「生まれ」による差別を排除する。先天的条件はその人の能力と無関係である。②「信条」=宗教的信仰、人生や政治に関する思想によって差別することも許されない。③「社会的身分」=人が社会において占める継続的な地位を指す。労働者、使用者、学生など。
以上から、憲法第14条は、平等な取り扱いを厳しく要求し、差別的な取り扱いを禁止している。それでは、いつでも絶対的に平等に取り扱うことが要請されるのであろうか。通説は、立法者に対しては、絶対的平等ではなく、相対的平等を要請するに止まる。なぜなら、事実としての個人差(少年と成人、男性と女性、公務員と非公務員の差異)を全く無視して平等に取り扱うことが真の平等とは言えないからである。つまり、それが合理的差別なのである。
通説は、相対的平等が、正義にかなった平等であるとする。つまり、「合理的差別」は憲法に抵触しない。なお通説では、「正義に反する差別」や「合理性を欠く差別」などを禁止する。しかし、何がそれに該当するかは、個別に検討されなければならない。
①女性と男性の身体的差異に基づき女性の労働条件を優遇する(労働基準法第64条の2「第6章の2妊産婦等」以下)
②年齢によって権利や責任を区別する(少年法)
③所得の多い者に多額の税を課す(累進課税)
④公務員に特別の法的規制を加える(公務員法)
①尊属殺重罰規定の合憲性
刑法第199条
「人ヲ殺シタル者ハ死刑又ハ無期若シクハ三年以上ノ懲役ニ処スル」=普通殺人
刑法第200条
「自己又ハ配偶者ノ直系尊属ヲ殺シタル者ハ死刑又ハ無期懲役ニ処スル」=尊属殺人
殺害した相手が尊属であるか卑属であるか(次頁参照)により、刑罰にこれ程の差別があるのは、社会的身分に基づく不合理な差別ではないのか。
最高裁大法廷(昭和48年4月4日)は、尊属殺事件において、以下のように判断を示した。かつては、「夫婦、親子、兄弟等の関係を支配する道徳は、人倫の大本」であるとして刑法第205条第2項(尊属傷害致死罪)及び刑法第200条を合憲としていた。だが、この判決では、親の尊重という立法目的自体の合理性を認めつつ、刑罰が極端に重い点は、普通殺人に比べて「著しく不合理な差別的取り扱いをするもの」であるから、憲法第14条第1項に違反して無効であると判断した。これによって、平成7年、刑法第200条及び刑法第205条第2項は削除された。
②議員定数不均衡の合憲性
公職選挙法別表が定める議員定数配分規定は、都市部への人口移動にもかかわらず、人口に比例した改正がなされていないため、選挙区の議員定数の配分に不均衡が生じ、選挙人の投票価値(「1票の重み」)に不平等が存在する結果となっている。こうした議員定数の不均衡を認める別表は、憲法第14条違反に当たるのではないかとする問題である。
③永山基準について
1968(昭和43)年、盗んだ拳銃を使って全国各地で立て続けに4人を射殺する「永山則夫連続射殺事件」が発生。この事件の裁判の判決は、「永山基準」とも呼ばれている。具体的には、(1)犯罪の性質 (2)犯行の動機 (3)犯行態様、特に殺害方法の執拗性、残虐性 (4)結果の重大性、特に殺害された被害者の数 (5)遺族の被害感情 (6)社会的影響 (7)犯人の年齢 (8)前科 (9)犯行後の情状 を総合的に考慮して死刑を適用するかを判断する。4名以上を殺害した場合は、原則として死刑が適用される。
精神的自由権
自由権とは、「国家からの自由」という意味であり、人権規定の中心的位置を占めている。
日本国憲法の自由権の分類について
精神的自由権・経済的自由権・人身の自由
精神的自由権 ①思想・良心の自由(第19条)
②信教の自由(第20条)
③学問の自由(第23条)
④表現の自由(第21条)
思想・良心の自由
日本国憲法第19条
思想及び良心の自由は、これを侵してはならない。
*以下では、この条文の意味について考察します。
憲法第19条は、人間の内心の自由として「思想の自由」と「良心の自由」を保障する。
現行憲法があえて精神的自由に関する諸条文の冒頭に思想・良心の自由の保障を規定した理由=明治憲法では、反国家的・反政府的な思想を理由として、①国民(臣民)に不利益(刑罰)を科し、②思想・良心に対して干渉し(教育勅語など)、③思想・良心の告白を強制し(踏絵や調査など)、内心の自由そのものを侵害してきたから。
思想・良心の自由は、人間の尊厳の基本的条件として、物事の考え方や見方の自由を絶対的に保障することにより、内面的精神活動を弾圧から防衛しようとする規定である。
思想・良心という内心の自由が完全に保障されてこそ、その外面的な行動・活動に該当する信教の自由、学問の自由、表現の自由を実現できるのであり、それは民主主義の最も根本的な前提条件となる。
用語の定義
①「思想の自由」=論理的に何が正しいのかを考えることの自由(例えば、正・誤など)
②「良心の自由」=倫理的な判断に関する自由(例えば、善・悪など)
*思想の自由と良心の自由は、人間の内心における思考(例えば、世界観、人生観、主義、信条など)といった精神的活動の自由を意味する包括的な呼称として解されている。
思想・良心を「侵してはならない」とは、
①国民がいかなる世界観、人生観、そして主義や主張を持っていたとしても、それが内心の領域に止まる限り、絶対的に自由であり、国家権力はそれを制限・禁止することはできない。たとえ暴力的破壊的な思想であっても、内心の思想に止まる限り保障されなければならない。
②思想・良心の自由は、自己の思想・良心の告白を強制されない「沈黙の自由」を含む。
沈黙の自由
思想及び良心の表出を強制する害悪を確実に防止するためには、「沈黙の自由」も認めることが必要である。なぜなら、「沈黙の自由」を含む以上、思想・良心の表出を強制することは許されないからである。
最大判昭和31.7.4.【謝罪広告強制事件】
この事件では、名誉毀損に対する救済措置として新聞紙上に「謝罪広告」を掲載すべきことを命じる判決の合憲性が争われた。最高裁は、民法第723条の名誉回復処分として加害者に新聞紙上などへ謝罪広告の掲載を命じることは、「単に事態の真相を告白し、陳謝の意を表明するにとどまる程度」であり、屈辱的もしくは苦役的労苦を科する、または倫理的な思想・良心の自由を侵害するものではない。従って、憲法第19条に違反しない。
思想・良心の自由の対象範囲について
①信条説=思想・良心の自由とは、「思想の他に、宗教的信仰や体系的知識に準じるべき、主義、イデオロギー、世界観など」を指す。謝罪の意思表示の基礎にある道徳的な反省と誠実さは、「単なる是非弁別の意識、ないし判断ごときに留まる場合には、思想・良心の自由の保障の対象ではない」とする。(通説と判例の立場)
②内心説=思想・良心の自由とは、「人の内心における精神活動全般」を指す。「単に世界観などに限らず、事実に関する是非弁別の判断や事実に関する知識も原則として本条の保障対象とされる」とする。
信教の自由
日本国憲法第20条
信教の自由は、何人に対してもこれを保障する。いかなる宗教団体も、国から特権を受け、又は政治上の権力を行使してはならない。
2 何人も、宗教上の行為、祝典、儀式又は行事に参加することを強制されない。
3 国及びその機関は、宗教教育その他いかなる宗教的活動もしてはならない。
政治的宗教的な自由主義は、中世的な宗教弾圧に対する抵抗から生まれた。従って、信教の自由は、歴史的に言って、精神的自由権の中で最も重要な地位を有する。
「メイフラワー誓約」(1620年):神の栄光とキリスト教信仰の振興および国王と国の名誉のために、バージニアの北部に最初の植民地を建設するために航海を企て、開拓地のより良き秩序と維持、および前述の目的の促進のために、神と互いの者の前において厳粛にかつ互いに契約を交わし、我々みずからを政治的な市民団体に結合することにした。これを制定することにより、時々に植民地の全体的善に最も良く合致し都合の良いと考えられるように、公正で平等な法、条例、法、憲法や役職をつくり、それらに対して我々は当然の服従と従順を約束する。君主にして国王ジェームズのイングランド、フランス、アイルランドの11年目、スコットランドの54年目の統治年11月11日、ケープコッドで我々の名前をここに書することを確かめる。
明治憲法第28条:日本臣民ハ安寧秩序ヲ妨ケス及臣民タルノ義務ニ背カサル限ニ於テ信教ノ自由ヲ有ス
「安寧秩序」を妨げり、「臣民タルノ義務」に背いたと認められたときは、法律または命令によって制限することができる信教の自由である。つまり、当時は、神道が国教的地位にあり、優遇的に取り扱われた。従って、明治憲法における信教の自由は、神社の国教的地位と両立する限りで認められたにすぎない。
最大判昭和38.5.15.【加持祈祷による傷害致死事件】
宗教的行為の自由は、憲法上、最大限尊重されなければならない。しかし、その自由は決して無制限ではない。「加持祈祷」という宗教的行為に名を借りて、個人の生命や身体に危害を及ぼすような行為などは、信教の自由の限界を越えた反社会的行為であり、それを処罰することは違憲ではない。
争点:①信教の自由は無制限に保障されるか。②加持祈祷は正当業務行為として刑事免責されるか。
判決:上告棄却(有罪確定)
結論:①信教の自由は公共の福祉により制限される。②加持祈祷は正当業務行為とされず、刑事責任を問われる。
最決平成8.1.30.【オウム真理教事件】
オウム真理教への解散命令の合憲性が争われた。最高裁判所は、「大量殺人を目的としてサリンを大量に生成するという、著しく公共の福祉を害すると明らかに認められ、宗教団体の目的を著しく逸脱した行為をしたことが明らかであり、他方、解散命令によって代表役員、幹部、信者らの宗教上の行為に生ずる支障は間接的で事実上のものにとどまるので、本件(宗教法人法第81条による)解散命令は必要でやむを得ない法的規制である」とした。
信教の自由を確保するためには、国家と宗教を制度的に分離することが必要である。特定の宗教のみが国家によって公認されてはいけない。これを「政教分離の原則」と称する。
①憲法第20条第1項後段は「いかなる宗教団体も、国から特権を受け、又は政治上の権力を行使してはならない」と定める。
②同条第3項は「国及びその機関は、宗教教育その他いかなる宗教的活動もしてはならない」と定める。国家から特権を受ける宗教を禁止すると同時に、国家が宗教教育その他の宗教活動を行なうことも禁止する。国家は宗教的に中立である。
政教分離の原則を徹底するために、憲法第89条は、財政面から公金や公の財産を宗教上の組織や団体の用に供してはならないとする。
日本国憲法第89条
公金その他の公の財産は、宗教上の組織若しくは団体の使用、便益若しくは維持のため、又は公の支配に属しない慈善、教育若しくは博愛の事業に対し、これを支出し、又はその利用に供してはならない。
最大判昭和52.7.13.【津地鎮祭訴訟】最高裁多数意見を読んでみよう。
「元来、政教分離規定は、いわゆる制度的保障の規定であって、信教の自由そのものを直接保障するものではなく、国家と宗教との分離を制度として保障することにより、間接的に信教の自由の保障を確保しようとする」ものである。政教分離規定の性格を制度的保障原理であると見ている。
【概要】三重県津市の市立体育館の起工式が行われた際、神式の「地鎮祭」が行われ、その費用を同市長が公金から支給した。それが「政教分離原則」に反しないかが争われ、第一審は合憲、第二審は違憲の判決が下された。そこで市側が上告した。
【争点】①政教分離原則の意義は。②地鎮祭への公金支出は合憲か。
【判決】 ①関係性が一般常識を超え、宗教を促進すれば違憲。②地鎮祭の公金支出は合憲。
国家と宗教との関係性の一切が禁止されるものではない。国家の行為の目的や効果から見て、「宗教とのかかわり合いが、わが国の社会的・文化的諸条件に照らして相当とされる限度を超えるものと認められた場合」に許されないとされる。これが相対的分離説である。
現行憲法第20条第3項で禁止する「宗教活動」とは、「相当とされる限度を超えるもの」=「その行為の目的が宗教的意義をもち、その効果が宗教に対する援助、助長、促進又は圧迫、干渉等になるような行為」と解される。=「目的・効果基準」の理論
仙台高判平成3.1.10.【岩手靖国訴訟事件】
地方公共団体の議会が天皇や内閣総理大臣等閣僚による靖国神社公式参拝の要請決議を行ったことをめぐって、国家神道の象徴的存在であった靖国神社に総理大臣が国民を代表する形で公式参拝することは、政教分離の原則から違憲ではないかとする争いがあった。
控訴審判決は、「政教分離の原則に照らし、相当とされる限度を超える国と宗教上のかかわり合い」をもたらすものとして、違憲の疑いが強いとされた。